予習復習いたしましょう。
この事の背景には何があるんでしょうか。
紀元前221年にハスドルバルが暗殺されるとハンニバルは軍隊に司令官として指名され、カルタゴから承認を受ける。そしてイベリア半島戦線の指揮を取り、エブロ川南方の制圧に着手した。当時カルタゴはローマとエブロ川を境界として相互不可侵条約を結んでいたが、ハンニバルの力を恐れたローマはエブロ川南方にある都市ザグントゥムと同盟関係を結び、彼の侵出を阻止しようとする。しかしハンニバルはザグントゥムを包囲攻撃し、8ヶ月後に陥落させた。ローマはハンニバルの行動を条約違反としてカルタゴ政府に懲罰を要求したが、ハンニバルの絶対的な人気の前に、カルタゴ政府は彼に対して何の手も打てなかった。
紀元前218年、ハンニバルは5万の兵と37頭の戦象を率い、途中で遭遇するガリア人を懐柔あるいは服従させつつピレネー山脈を越える。そして制圧したガリア人たちを配下に加えつつ西進し、ローマが彼の進路に気付いたころにはすでにローヌ川付近に到達していた。ここでハンニバルの軍勢はローマ軍に発見されたが、所在をくらましてさらにアルプス山脈を越える(この時のルートは詳しくは分かってはおらず、現在でも歴史家の間で意見が異なっている)。ついにハンニバルはイタリアへ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。第二次ポエニ戦争(別名、ハンニバル戦争:紀元前218年?紀元前201年)の始まりであった。
元前216年、ローマの執政官にガイウス・テレンティウス・ウァロとルキウス・アエミリウス・パウルスが当選した。このうち、ファビウスの戦法に不満を持つウァロはハンニバルに対して果敢に立ち向かってゆく。ウァロはローマ軍を増強し、同盟都市からも兵を募って、ハンニバルのいるアプーリアへ南進した。しかしハンニバルはウァロの性急さを利用して決戦に持ち込み、史上有名なカンナエの戦いでローマ軍を完膚なきまでに叩き潰す。この戦いでは50,000から70,000人のローマ兵士が戦死あるいは捕虜になったという。執政官パウルスと次期執政官に内定していた者2名が戦死、さらに2人のクァエストル、48人のトリブヌス・ミリトゥムが戦死し、ローマは一度の戦闘で指導者層の25%を失うという、過去に例のない完敗を喫した。これ以降、ローマはハンニバルに対しては消極的な戦法に徹する事になる。
勝利したカルタゴ側では余勢を駆って一気にローマを攻略すべきだという意見があり、とくに騎兵隊長のマハルバルが強く進言したが、ハンニバルは攻城兵器や兵站の不足という戦略上の理由から、首都ローマへの進軍を選択せずにローマ同盟都市の離反を図る事を決定する。この時マハルバルはハンニバルに対し「あなたは勝利を得る事ができるが、それを活用する事は知らない」と言ったという。
ハンニバルは紀元前216年にカプアを、紀元前212年にタレントゥムを離反させ、シチリア島のギリシア人都市を反乱させるなど成果を挙げたが、それらを除いては目立った成果を上げられず、以後イタリア半島では一進一退の膠着状態が続く。シラクサのヒエロニモスと同盟したハンニバルはカルタゴ本国に補給を要求したが、カルタゴ政府はこの戦争に対してはじめは日和見の立場を取っており、制海権をローマに握られているせいもあって、ハンニバルは本国とうまく連携することが出来なかった。現在の戦史家の論議においても、カルタゴからの物資援助があればハンニバルはローマを直接攻撃できたのではないか、と指摘されている。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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